やりがい搾取の時代 1/2

【やりがい搾取とは】
やりがい搾取とは、東京大学の本田由紀が使用し、2000年代に広まった概念です。
やりがいを搾取している(搾り取っている)と見える用語ですが、正確には、従業員のやりがいに乗じて、過重労働を強い、利益(利潤)につながる剰余価値をたくさん搾り取っているという意味です。
剰余価値とは、原材料や従業員の雇用などに投下した元手を超える価値の部分です。
元手は原価とかコストと言われているもの、それを超える部分は儲けと解していただくと分かりやすいと思います。
単純化すれば、売れた金額からコストを引けば儲けが残ります。その部分が剰余価値と思ってください。
ただ、搾取のメカニズムについては経済学を学んでいないと分かりにくいと思いますので、解説しておきます。
【搾取とは】
搾取という用語は、19世紀に活躍した経済学者であるカール・マルクスが経済学の概念として用いた言葉で、労働価値説を反映しています。
労働価値説とは、労働こそがモノの価値を生むという考え方です。上記のように、原材料を購入し、従業員を雇って製品を作った場合、原材料や給与の額よりも増えた分が儲けになります。
その際、増えた額は、労働が生み出した価値分であり、労働が行われたからこそ増えたのであって、資本家が元手として投資した資本が価値を生んだわけではない、という考え方です。
資本家が投資した資本が価値を生むと考えれば、儲けは資本が生み出した価値が背景にありますから、資本家が儲けを手にするのは当たり前で、正当な行為です。
しかし、労働こそが価値を生むということであれば、資本家の行為の正当性には疑問符が付きます。そこから、資本主義ではない社会を目指す展開も必然化します。
資本主義の中で我が世の春を謳歌している資本家たちにとっては都合が悪いことです。
そこで、資本家や資本家につながる思想家、経済学者、政治家たちは、マルクスの経済学を危険思想と位置付けることになります。
確かに当時の上級国民にとっては危険な考え方であったのかもしれません。
【資本家はなぜもうけを自分のものにできる?】
ですが、資本家は増えた分の価値を儲け(利潤)として受け取っています。これはなぜ許されるのでしょう?
労働が生み出した価値を、資本家がなぜ自分のものにできるかというと、資本家は、価値を生むための労働する能力を商品として労働者から買っているからです。
働く能力を労働力、それを商品化したものを労働力商品と言います。
人身売買ではありませんから、労働者そのものを買うわけではなく、働く能力を1日~時間使うという形で買うのです。
商品を買った側は、その商品をどのように使うかを決められますし、使うことで得られた便益は自分のものにすることができます。
それが、資本家が儲けを手にするメカニズムです。
【儲けのメカニズムと過重労働圧力】
賃金は働いた分の対価であると考えられていますが、そうではありません。
賃金は、労働力商品の代金です。では、その代金はどのようにして決まるのでしょう。通常の商品と同じです。
作るのにどれだけのコストがかかったか、正確には原材料を作る労働も含めてどれだけの労働が投入されたかによって決まります。
平たく言えば、労働力の生産費とは、教育などによって働く能力を形成し、食事や休息をとることによって毎日働ける状態にするための生活費です。
日払いの賃金であるとすると、資本家は、労働者が生活するために必要とする日々の消費財の費用に加え、教育費や家賃などを日払いに分割した生活費を賃金として払います。
一方、労働する能力を買ったからには、購入した費用を超えるだけ働かせても問題はありません。払っている以上に働かせることによって儲けを得るのです。市場(しじょう)経済の原則の下では可能なのです。
みなさんが服を買ったとしましょう。みなさんは、それを着ておしゃれを楽しむ、寒さを防ぐなどといった便益を手に入れることができます。
また、買ったけど気に入らないので着ないままクローゼットにしまい込んでもリサイクルにまわしてもみなさんの自由ですし、ボロボロになるまで着るのもみなさんの自由です。
市場経済は、商品を購入した者が商品をどのように扱うかを判断し、そこから生ずる便益を享受する権利があるのです。
もちろん、資本家は受け取る額を増やしたいですから、長時間働かせたり、より一層の成果を出すために負荷をかけたりします。それが過重労働や過労死につながるのです。
そのようにして資本家は、労働者から労働者が生み出した価値をこれでもかと搾り取っている、という現実を描くために、マルクスは、搾取という用語を使ったわけです。
やりがい搾取という用語からすると、やりがいを搾取しているように思えますが、少し異なるのです。
【なぜやりがい搾取なのか?】
やりがい搾取は、2000年代の日本の状況を反映して登場したと用語です。
1990年に日本のバブルが崩壊しました。それまでは、日本独特の経営システムが日本の強さや成長を生んでいるといった議論が主流でした。
日本独特の経営システムを「日本的経営」と言います。しかし、バブルがはじけて、日本の経営に対する否定的見解が時代の流れになります。
そこで出てくるのは、「市場(しじょう)メカニズムに任せればすべてうまくいく」といった間違った考え方です。
また、市場メカニズムは、市場における熾烈な競争が行われる場です。それを雇用の場に持ち込み、成果を上げなければ給料を減らすぞ、首を切るぞという脅しの成果主義を導入する企業も増えます。
しかし、19世紀にはすでに市場メカニズムは格差を生み、富者はより富を蓄積し、貧困層は貧困から脱することが難しいことが経済学によって明らかにされていました。
また、脅しの成果主義もうまくいくはずがありません。怒鳴りつけたり脅したりすれば、一時的にかなりしんどい仕事をこなすかもしれません。
しかしその状態が永続することはありません。疲れ切り、精神を病んだり、過労死・過労自殺に至ったりします。
それゆえ、バブル崩壊後は、精神を病んで退職する従業員の増加や過労死・過労自殺が問題になっていきます。
日本の場合特に、人件費を削減するための便利な方策として成果主義が導入されます。
つまり、成果を上げてもなにかとケチをつけて報酬を引き上げない、成果を上げなければペナルティを課すといったことが行われます。
こんなことをして経済が活性化する、従業員がやりがいを持ち求心力を高めて仕事をする、などということになろうはずがありません。
でも、企業は従業員を働かせ、利益を上げねばなりません。特に景気が悪い中でなんとかせねばならない。
しかし、日本的経営は有効ではなくなっています。成果主義も思ったほどの効果を生みません。
そんな雰囲気の中でやりがい搾取という方策も出てくるのです。