かわいそうとは、差別のことよ!

かわいそうとは、差別のことよ!

元宮城県知事・土屋総研 特別研究員
浅野史郎

2022年12月26日の朝日新聞夕刊の一面トップに、「視覚障害=かわいそう」という固定観念を壊したいとユーチューブで活動する全盲の女性(山田菜深子さん(35))の記事がありました。一部引用します。

数年前、白杖をついて一人で外出したときのことだ。中年の女性から声をかけられた。「目が見えないの? かわいそうに」。そう言って道案内をしてくれた。その女性は、会話の中で何度も「かわいそう」を繰り返した。(中略)同じようなことは何度もあった。

「一人で階段を降りられるの?」「着替えはどうしてるの?」「スマホは使えるの?」周囲に聞かれるたびに、いかに視覚障害者の生活が世に知られず、「何もできない」というイメージが浸透しているかを実感した。(引用終わり)

山田さんは、「かわいそう」と思われること、言われることはいやだと感じています。なぜいやだと感じるのかは人によっていろいろ違いはあるでしょうが、山田さんの場合は「何もできないからかわいそう」と思われているのがいやだ、というより間違っていると言いたいのでしょう。

山田さんはユーチューブチャンネルを運営しています。これまでに投稿した動画は300本、チャンネル登録者は600人余り。何もできないなんてことはないと言いたいのです。

「障害は不幸ではない、不便なだけ」というのは、ヘレン・ケラーの言葉です。乙武洋匡さんはこの言葉を自著「五体不満足」の中で引用しています。どちらも重度の障害者です。本人たちは自分で不幸ではないと思っているのに、周りは「かわいそう」と憐れんでいる。全盲の山田菜深子さんのケースでもそうでした。

なんで「周りの人」(=一般市民)は障害者を見て「かわいそう」と思うのでしょうか。いくつか理由はありますが、大きいのは「障害者はなにもできない」という思い込みです。

「かわいそうとは差別のことだ!」と怒っていた自閉症の息子を持つ父親がいました。「かわいそう」と言われた本人からすれば、上から目線の言葉に聞こえるのでしょう。

「自分のほうが優れている」という感覚があるので、「かわいそう」という言葉が発せられるのです。内なる優生思想かな。

 <重度障害の人を助けるときに「かわいそうだから、弱いからやってあげよう」というのは「思いやり」。障害があっても、健常者と同じようにふつうに生活する権利がある。だから助けるというのは「人権の尊重」>という論を聞いたことがあります。思いやりで助けてもらうというのは、障害当事者としては抵抗があるのでしょう。

思いやりというのは、自分より(生きる力が)弱い人に情けをかけるという状況でなされるものです。自分より強い人に対しては、思いやりの心は働きません。障害があっても一人の人間としての尊厳を侵されたくないという障害当事者にとっては、思いやりというのは余計なものに感じられるのです。

「障害は不幸ではない、不便なだけ」という言葉に戻りましょう。「不便なだけ」というところを強調する行動をとっていたのが、今はなき海老原宏美さん。海老原さんは、脊髄性筋萎縮症Ⅱ型という難病を持ち、日常生活のあらゆる局面で介助を必要としています。

高校に通っていたとき、通りかかる生徒に「すみません、私の教室は3階なんですが、車いすを運んでもらえませんか? 私の車いすを持ち上げるには4人必要なんで、あと3人揃うまでちょっと待っててもらえますか?」と言って、毎朝見ず知らずの生徒を捕まえていました。

海老原さんは、駅で見ず知らずの人に、「車いすの後ろのバッグの中に財布が入っているのでお金を取って切符を買ってください」などと頼んでいました。見知らぬ人にヘルプを頼む行為、彼女はこれを「人サーフィン」と名付けました。

海老原さんは「人にものを頼むというのは、生きていく中で最も神経をすり減らす作業です」と言っています。頼まれた人は生まれて初めて障害者を助けたのかもしれません。彼らにとっては、障害者を見る目が変わるようなすごい経験だったことでしょう。自分のための人サーフィンが、一般市民にとっての教育になっています。

一般市民が障害者をあわれでかわいそうな存在とみなす風潮、これを困ったもんだ、なんとかしなきゃと思うかもしれませんが、心配しなくてもいいです。いずれ日本社会もいい方向に変わっていきます。「施設福祉から地域福祉へ」の流れはいずれ完成します。障害者が地域で活動している姿に接する機会はどんどん増えていきます。「障害は不幸ではない、不便なだけ」と実感する市民が多数になるのです。

障害児が普通学級で学ぶ、いわゆる「共に学ぶ教育」が文部科学省の姿勢にもかかわらず、(遅々として)進んでいます。クラスメイトは自然に障害児を助けています。彼らが大人になったら、「障害者はかわいそう」というのとは無縁で、「共に生活する地域」ができるでしょう。私は、そう期待しています。

※ 文中海老原宏美さんについては、ご著書「まぁ、空気でも吸って――人と社会:人工呼吸器の風がつなぐもの」(2015年 現代書館)から引用しました。

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