【書評】『施設とは何か‐ライフストーリーから読み解く障害とケア / 麦倉泰子 (著)』

『施設とは何か‐ライフストーリーから読み解く障害とケア / 麦倉泰子 (著)』

評者 齋藤直希

本書は、序章にある通り、

【 施設での暮らしを経験した障害のある人たちとその家族、そこで働く人たちやさまざまな立場の支援者などといった人たちの語りから、「施設」とは何かを明らかにすること(9ページ) 】

を目的とした書物である。

まず序章については、「施設」に関わる様々な立ち位置の人々の、いわば「施設」という小さな社会の中で、それぞれの人たちが、どのような影響を受けていくか、それによってどのような課題が発生するかといったことについて、当事者性や社会学、社会福祉学、医療福祉などの専門学群をバックボーンとしての「障害学」の研究成果の到達点を精緻に理論構成しながら考察している。

その課題提起として、本書9ページに

【 さまざまな立場の人たちが(中略)、個々の語りに耳を傾けるとき、「施設」とは単なる物理的な構造物ではないのだということをあらためて理解することができる。 】

という表現で鋭く記載している。

それを証明するかのごとく、イギリスでの障害者運動から生み出された「パーソナル・アシスタンス」論を引き合いに出しながら、「施設」という集団が小さな社会としての、質的研究のアプローチに基づく分析を再考している。

そして施設の中で小さな社会関係が構築されてゆく「社会状況Social settings」を踏まえながら、イギリスの障害学を引っ張ってきたマイケル・オリバー提唱の「無力化 disablement」と「社会的抑圧 social oppression」が、小さな社会集団としての施設の中でも発現していくことを、著者は詳細にまとめている。

続けて、当時のスウェーデンでの「(障害)当事者の管理に基づく個別支援」を実践しているアドルフ・ラツカの指摘を掲げながら、イギリス外でも「無力化」「社会的抑圧」が再現することについて、詳細に論述している。

「無力化」「社会的抑圧」が、施設の中でも発現し、それらの状況を覆すために、イギリスの障害者運動によって提唱された概念が、「パーソナル・アシスタンス」というものである。

そしてそれらの社会学的な考察が、「当事者主権(上野千鶴子・中西正司著・岩波新書、2008年)」などとともに、論理的に詳細に述べられている。

特筆すべきところは、「ニーズ」と「ニード」の違いの説明であり、これらの違いから、障害当事者の主体性の有無や、社会福祉政策の考え方の違いの原因に繋がるという説明である。

ここで、「ニーズ」と「ニード」の違いについて説明している文章を引用してみたい。

【 日本の社会福祉の領域において多く引用される三浦文夫の定義を参照してみたい。

なお、日本の社会福祉の現場においては、複数形の「ニーズneeds」という表記が一般的に使われており、また研究の分野においても、これまでに引用してきた上野の研究に見られるように、複数形の「ニーズ」という表記を採用することが多い。

このため、本書においても基本的には複数形の「ニーズ」という用語を使用する。

ただし、以下で引用する三浦の文章に見られるように、著者自身が単数形の「ニードneed」という用語を用いている場合には、それをそのまま表記する(本書30ページ) 】

【 「~がしたい」「~が欲しい」という日常的な言葉で表明される主観的な必要性を、「~のニードがある」と言い換えることによって、そこに社会的に認められるか否かという判断が入り込むことになる、と武川は論じるのである。

上野千鶴子もまた、三浦文夫の定義を引用しながら、援護水準によって行われる分類である「顕在ニーズ」と「潜在ニーズ」について、次のように論じている。

顕在ニーズより潜在ニーズの方が援護水準が高いと見なされているから、この用語法の背後には、当事者の判断能力を低く見て当事者に代わってニーズを判定する専門家の代行主義があるだけでなく、専門家が当事者にとってつねに「善意の他者」であるとするパターナリズムがある。(上野 2011-69)

つまりニーズという言葉を媒介とすることによって、ニーズの帰属する主体である本人の判断よりも専門家という第三者による判断に対して優越性が与えられてしまうという問題が発生することを主張するのである。

上野は、ここに、「ニーズの帰属先であることが『当事者』を定義する」(上野2011-68) ことの困難、すなわち自己決定の主体として当事者があることの困難が生み出されると指摘する。 】

というように論じている。

確かに私たちは、障害の有無にかかわらず、「~がしたい」「~が欲しい」というようには言語表現するが、それをもって、「~のニードがある」というような表現をすることは、ほぼほぼない。

しかしながら、福祉の分野では、「モニタリング」「アセスメント」などを通じて、「本人のニーズ」などという形で、「ニーズ」という表現を多用する。

そしてそういった言葉を多用するのは、障害当事者などではなくて、「(本人周辺の)専門家」である。

私自身も公的支援制度を利用しているので、利用者として現場の中に常に存在するが、この現実は少なくとも私の周辺では、正しく存在する。

だが、言語の表現というものは、表現者の主観を完全に排除して表現することは、絶対にできない。

そこから類推するだけでも、障害当事者の希望とはズレが生じ、その延長線上に本書にも出ている通り、「専門家支配」が発生しうることは否めない。

そして著者は、詳細にその問題と課題と困難性について丁寧に論述している。

第1章では、「無力化」に至る理論を詳説している。

この部分を読むと、「障害概念」についての「医学モデル」と「社会モデル」の違いの発生の経緯が分りやすく述べられている。

なぜ障害者が社会的なスティグマを抱えていくのか。

その解決策としての障害者運動、「自己決定に基づく日常生活」の大切さが、障害学における中心概念になっていることが分りやすく論じられている。

他方で、「自己決定」がされにくい状態であれば、その場所が、施設であろうと家族内であろうと、「(通常、芳しくない形で表現されるところの)施設化」的な部分として論じられており、それらの解決策としての、障害者運動とエンパワメントなどが表出することを述べている。

続けて、第2章および第3章では、知的障害者の方を中心に関係者への聞き取りを行い、施設入所に至る過程について詳細な調査を行っている。

その中での私が印象に残る聞き取り調査の部分があった。
当初は施設に入りたくなかった、家から出たくなかった知的障害者の方の聞き取り調査の部分である。

【(引用部分ではあるが、総合的考慮の上で、聞き取り調査した方を「調査員」そして、聞かれた側を「利用者」と記載する。

調査員:(施設入所するために)お家を出るってことはどうだった?

利用者:あたし、お家出たくなかったの。
ずうっとA町に居たかったんだけど、兄嫁がここは甥っ子のお家なんだ、もう明子ちゃんのお家じゃないって。

調査員:お姉さんたちはどうしろって言ってた?

利用者:;あの、明子が施設に人りたいならそうしろって。その方がいいかなって。
そして、大阪のお姉さんが来たときにいろんな話して、本人が入りたいんだったらいいかなって。

調査員:だけど入りたくなかったんだよね。

利用者:いや、あたしもう出たいって思ってたの。

調査員:お家を? どうして?

利用者:あの、障害者って言われた時にね、障害を持った、重い障害を持った人たちを助けてあげたいなって気持ちがあったのね。助けてあげたいって。


(本書90から91ページ) 】

私はこの部分を読んだ時に、雷に打たれたような衝撃を覚えた。
私自身も他の多くの方々よりは短いとはいえ、施設入所経験があった。

幼少期だったということもあってか、しょうがないなというような言葉に表現にしにくいような感覚は覚えている。しかしながら、上述の利用者のような思考までには至らなかった。

確かに、当時の施設では軽い悪戯のような喧嘩のような事柄は多々あったとしても、「障害が軽いところの残存能力を生かしながらお互い助け合う。」というような感覚は明確に存在していた。

だがそれが理由で、いわば積極的な理由として、「施設で暮らしたい。」と考えているような周囲の方と出会ったことはなかったからである。

これが、「無力化」であり、「施設化」の真の意味なのだろう。

単純に利用者の最後の一言だけを読めば、「主体性がある。」と解釈できないわけではないが、そのような思考回路に至らしめたことが、まさに「施設化」ということなのだ。

第3章では、「親亡き後」についても、障害者本人だけでなく、家族の葛藤も描き出されており、それでいて調査をもとに客観的に論じられている。

さらに続いて第4章や第5章については、主に身体障害者についての聞き取り調査を前提に論述が展開されている。

第4章では、施設では、「『自立』のために、『自分で自分のことをすること』」という考え方が、あくまでも施設生活に根づいていて、「自己決定」ができないだけでなく、「支援さえ受けられない矛盾」について論述されている。

先程のように「調査員」「利用者」という表現で、一つ引用してみると、

【 調査員:施設にいたときというのは、自分でやりなさいという感じ?

利用者:そうですね"今は体調に応じて、「今日は少ししんどいから」「ほかのことをやりたいから、ちょっと体力残しておきたいから、ちょっとこっちも手伝ってね」と言えるんですけど。

施設にいるときは、やっぱり時間がかかってもできることはできることなんですよ。そうなんで…。

調査員:なるほど。できるまで待たれるという。

利用者:ええ、「時間かかってもできるでしょ」って感じですよね。やっぱり、自分より重度の人たちが結構いるので、その人たちにかかっている職員さんのしんどさを見て言えなかったんですよ。それがストレスにもかなりなってて。

調査員:本当は、もっとああしてほしい、こうしてほしいってことはあるんだけど…。
(中略)
調査員:でも、それこそ他の人にかかって忙しそうなのを見るとね。

利用者:そうですよね。やっぱり「できるわね。頑張ってね」と言われると言えないです。
それがすごい逆にプレッシャーになってしまってて、「あ。やらなきゃいけないんだ」って。


(本書132から133ページ) 】

先述したように、私にも期間の長短を問わず、施設経験があるので、ここに出てくる利用者の苦しみが自分のことのように感じた。

私自身で言えば、私は四肢麻痺というところに関しては、最重度級であるが、運良く首から上については、障害を背負っていない。

だから、私の場合は、「支援をお願いをするタイミングについては、普通に理解できるし、同じ施設にいる意思疎通も困難な最重度の障害者が優先的に支援を受けた方がいいのではないか。

と同時に、職員さんも、人員が決まっているので、人手不足で忙しく見える。
忙しくないうちにもっと早くお願いするべきだったのではないか。

今のタイミングだったら、もう少し待ってからお願いした方が良いのではないか。」などと、常に悩みながら、施設での生活を送った記憶がある。

そのように悩むことということ自体が、自分自身の「主体的な決定」のように見えそうではあるが、それは、本当の意味で、これ以上狭めることのできない範疇内での自己決定なので、そもそも決定する「選択肢」が極少なわけである。

本書の133ページの最後の行のところで、

【 こうした生活における時間や身体の「自律」が実現されず、時間と身体を他者にコントロールされる状態が続くことによって、そこで暮らす人は徐々に肉体的および心理的な疲労を抱え込んでいくことになる。 】

と著者は述べている。

それを踏まえて、「自尊心の低下」についての論述が続いていき、結果、利用者の中では、養護学校時代の先輩が、施設を出て「自立生活」を始めたことについての紹介があり、脱施設化に論が進んでいく。

「自立生活支援センター」などの当事者組織などについても触れられていて、障害者運動の起源も理解でき、とても分りやすい。

そして第5章では、身体障害者福祉法の改正の歴史が述べられつつ、昔の重度障害者に対する国家=社会(日本の)考え方が、詳しく説明されている。

当時は、最重度の障害者は、施設での支援も受けることができず、家族や当事者の繋がりというべきインフォーマルな人々によって地域社会に支えられていた時代があったことがわかる。

それを、国家の責任=「対策」として国会の中で論じられていたことが、詳細に記されている。

その結果の法改正で、「身体障害者療護施設」がその概念とともに作られていた経緯が説明されている。
その昔、身体障害者療護施設というものがあり、措置制度の最後の頃に、私自身もお世話になった。

それが、私よりもはるかに軽度向けの障害者の方の施設である、身体障害者更生援護施設のほうが主流であり、最重度障害者の「生きる場が少なかった。」というところまでは、私は知らなかった。

そして、身体障害者療護施設というものが、国会のやり取りの中で作られていったのだということは大変興味深い。

だが、その身体障害者療護施設において、「社会的抑圧」「無力化」「施設化」が起きているということが、明白に詳細に記述されてもいるので、利用者個々人の「主体性」や「個人として尊重される」ことの大切さが、鏡のような形で、綺麗に映し出されてきている。

そして日本の障害者の「自立生活」や障害者運動の始まりが描き出されているわけであるが、その先進国たるイギリスなどの障害者運動の概念や到達点が、第6章で論じられている。

いわゆる「パーソナライゼーション」と呼ばれる政策目標であり、障害者運動としては「ダイレクト・ペイメント 」についてである。実際に支援する側の「パーソナル・アシスタンス」についても、詳しく記載されている。

さすがにイギリス等においては、先進国だけあって、「障害の社会モデル」という考え方が、1990年代に確立しつつあり、暗に当時の日本が後進的であることを物語っているといえよう。

他方で、先進国たるイギリスなどでは、「ダイレクト・ペイメント 」の考え方での課題、つまり生活における(金銭を含む)援助を受けるため、医療福祉に関わる専門職に多大な影響を受けてしまうことについて、記述されている。

ダイレクト・ペイメントは、政策当初の考え方としては「贈与モデル」といういわゆる重度障害者に与えるという考え方だったが、「どのくらいの社会資源(金銭含む)を与えるべきか。」で、医療福祉専門職の影響を受け、障害者自らの主体的な生活を構築できないと障害者運動の中ではとらえられてきたようである。

その対局的な考え方が「市民権モデル」として説明されていて、それを踏まえた上での、ダイレクト・ペイメントの政策であり、その結果としての「パーソナル・アシスタンス(アシスタント)」という考え方が、丁寧に詳説されている。

確かにこの考え方も、障害者側から考えた場合においては、有効な方法論だった。
だがそれだけでは、すべての課題を解決に導くことも困難だったようである。

例えば、国から援助についての資源や資金を給付されたとて、知的障害者など他の障害者の特性を考えたときに、障害当事者にとって的確な「選択と決定。それに対する責任」をきちんと権利義務の体系の中で解決できるのかという課題に直面している。

もちろん、国家財政の記述もある。
それを解決する手段としてできたのは「パーソナル・パジェット」という考え方と政策体系である。

これは、現金支給などの資源を与えるものではなく、「(国の予算を含む)社会資源の分配或いは配分を行う」という考え方である。

障害当事者で金銭を用いて自分自身で援助を受ける手段を選択する方は、そのような援助手段を選択できるし、そういったことを行うことが困難な方に関しては、障害者がアセスメントなどを受けて、適切な援助を受けるというような、「いわば、障害特性に合わせた選択肢」を重視する考え方であった。

「本人の自己決定を根本」にしているので、当時の織者には高い評価を受けていたようであり、この考え方に医療的な部分を加えたものが「パーソナル・ヘルス・バジェット」という政策というか考え方なのだが、そこは本書で詳しく読んでもらいたいところである。

「自己決定」の根本的な部分に「パーソナル」いわば人格的な考え方があるが、ここまで進化してきても、批判や課題は存在するものである。

その中でも、特筆すべきは、利用者(ユーザー)と支援者(ケアラー)の関係性である。

イギリスの社会学者(家族社会学、ジェンダー論)のクレア・アンガーソンは、次のように主張していると、著者は論じている。

【 ケア・ユーザーだけでなく、ケアラーもまた、エンパワメントされるべきである、というものである。
背景には、ケアを行う人たちの中にも相対的にパワーレスである人たちがいるという認識がある。

アンガーソンは、サービスのユーザーと、ケアラーの双方の利益を両立させるような別の形態が考えられるべきであると主張したのである(Ungerson1997,46)。

アンガーソンは、ダイレクト・ペイメントによって障害者自身が受け取るサービスの質やタイミングをコントロールすることができるようになり、それが障害者のエンパワメントにつながるということは認めている。

しかし同時に、ダイレクト・ペイメントがケアワーカーに与える否定的な影響にも警告を発するのである。

すなわち、無資格で、扉用に関するさまざまな権利を認められない周縁化された非正規労働者の集団を創造していることになると指摘するのである。

さらに、ケアワーカーとして働く人の多くが女性であることから、ダイレクト・ペイメントがジェンダー間の不平等の問題とも関係してくると論じた。

アンガーソンの立場は、障害者運動の主要な主張である「ケアサーピスにおける抑圧」を鋭く対立する可能性をはらむ。

アンガーソン自身もこの点をよく認識している。(本書198ページ) 】

と著者はまとめている。
一方、障害者運動の担い手の1人であるジェニー・モリスの主張について著者は次のようにまとめている。

【 一九九七年に出版された論文である「ケアかエンパワメントか?障害者権利パースペクテイプ」の中で、アンガーソンがパーソナル・アシスタンスを「商品化されたケア」であるとして否定的に分析したことに対して厳しい批判を行った。

モリスは、アンガーソンの議論は自立生活運動が二〇年以上にわたって行ってきた仕事と活動、そしてパーソナル・アシスタンスを求めて闘ってきたことを認識せず、侮辱的であり、その主張は、専門職に共通した権利意識の欠如によるものであるとして強く非難した(Morris1997‐57)。

アンガーソンが述べたようなインフォーマルな労働市場は、子どものケアに関しては広く行われているものであって、障害者のパーソナル・アシスタントのみに注目することの合理性の根拠は存在していないとモリスは指摘した。

モリスは、ダイレクト・ペイメントヘの戦いとは社会からの隔離に抵抗する戦いであると位置づける。

その立楊から、「社会研究者は、単なる学問的な関心ではなく人々の選択とコントロールとに関係する問題について、いかなる研究をする場合にもこの運動と道徳的な協力関係を結ぶ責任がある」と指摘して、あくまでも研究者として倫理的な視点を持ち込まずに識論を行おうとするアンガーソンの態度を批判したのである(Morris1997‐60)。

(本書199から200ページ) 】

アンガーソンとモリスの論争は、それぞれの信念とそれぞれの現実と歴史に根差すものであり、甲乙つけ難いものがある。

日本でも今、時代は違えど、介護人材不足が叫ばれる中で、性別の違いについて即座にすべて解決することは困難であろうと考えられる。

もちろんそれらは解決すべき課題として、解決されるまで努力を続けなければならない問題である。

しかしながら、性別の違いの前に「人間として」「人として」というような、さらに根本的な課題に観点を向けると、男女問わず人間として人として「ケアワーカー」としての労働者としての権利を守るという着眼点は、学者の専門分野を問わず、当然に考えることが道徳的であるだろう。

「人間として」「人として」自立して大多数の人々のように日常生活を行いたいと思うのは、障害の有無に関係なく当然に望むもので、「人権」の根本部分に関わることと私は考える。

同様に、そういった日常生活を行うための生活資金や資源入手の一つの手段として「労働の対価としての収入」というものが存在し、それらを守ることが労働における権利なのだから、その労働権を守ることを論ずることは大切なことであると考える。

このアンガーソンとモリスの論争は、私自身が障害当事者であると同時に、法学を学んだものとして、とてつもなく悩ましい課題であると感じている。

私なりの一つの感想を先述したが、それが最終的な答えであるとも言えないし解決策は永遠に考えなければならない。

第7章では、支援者や家族の関係性について詳説していて、著者は関係者に、可能な限り、まさに寄り添いながら、詳しく聞き取りを行っている。

家族が障害児者を家族として持つことは、大きな不安と覚悟を迫られるものである。
障害児者本人も、家族以外の存在(社会)が病院だったりするので、地域との関わりは、自然と少なくなってゆく。

そして福祉制度のみで生活を組み立てていくと、地域と家族との距離感も遠くなってゆく。

その関係性を維持し、重要性を意識しながらフォーマルとインフォーマルを組み合わせる要となるのは、やはりソーシャルワーカーなのだろう。

特に医療的なケアを必要とする場合は、他者の存在(とりわけ医療専門職など)の干渉を広く受けなければならなくなる。

それは、当該本人そしてその家族や周辺の「生活の質」に直結して影響を受ける。
このような一連の影響についての原因や現実について、一つ一つ課題を提示しながら詳しく著者は記述している。

第8章については、障害者権利条約と、日本における成年後見制度、その他の「権利擁護」について詳しく述べられている。

イギリスの状況を取り上げながら、権利擁護の大切さと、自己決定を行う際の「意思能力の問題」が著述されている。

「障害者」と一言に言っても、一人一人の障害者は、それぞれの障害の種別はもとより、障害の軽重や、一人一人の生い立ちも環境もそれぞれ違う。

そういった違いを踏まえながら、「自己決定していくことの大変さ」について論じている。
そしてその延長線として、意思決定支援についても触れている。

他方で、日本の成年後見制度は、「代理権」を中心に据えて制度設計されているため、法律行為についての「取消権」「追認権」などを中心に作られている。

つまり、日常生活に関わる権利行使についての「権利擁護」としては、使いにくい制度なのである。

日本の成年後見制度は高齢化社会への対応が強く、その制度設計に影響を受けている。
それゆえ成年後見制度自体が、高齢者のためだけのものでもなければ、障害者のためだけの制度でもない。

そして「権利擁護」と、日本の障害福祉制度の発展、つまり障害者権利条約の流れの影響と、日本における障害者支援の制度改革の変化、支援費制度、障害者自立支援法、障害者総合支援法を通じての、「ケアマネジメントの導入と、相談支援について」が、制度の変遷とともに描かれている。

本書は終盤に近づくにつれて、「施設」というキーワードから、「ケア」或いは「パーソナル・アシスタンス」を中心とした自立生活に論述が移行している。

著者の意図するところとしては、「施設の実態」を明確化していきながら、何故に、自立生活に移行していったのかを明らかにしたい、ということではないだろうか。

「終章」の結論の部分で、著者は、このような文言を記述している。

【 2 結論
本書全体を通して障害者運動と障害学から生み出されたケアと予算の個別化の仕組み、すなわち「パーソナル・アシスタンス」を、障害のある人、家族、そして支援者のエンパワメントのあり方を構築するための試みとして提示した。(本書267ページ) 】

確かに、この結論に掲げられている通りの『提示』は、とても強く伝わってきて分りやすい。

しかしながら、現実社会を振り返った時に、「施設」というものについて必要としている方が存在していることも、施設が存在している以上免れることのできない事実である。

さらに、「親亡き後」まで考えたときに、地域や在宅で、どこまで生活していけるか、不安は尽きない。

他方、「施設という建築物が施設とは限らない。」という趣旨についても触れられている。
つまり、「自己決定できる生活(意思決定支援含む)」ことこそが、最重要なのではなかろうか。

さらに付け加えれば、日本では、「住宅事情」という大きな問題が立ちはだかる。

「住む場所=住宅」を、障害当事者が支援を受けながらでも住む場所を、比較的に円滑に行うことができるようにならなければ、結局のところ、住居問題という壁で、「施設」という選択肢を選ばざるを得なくなってしまう。

本書の表題は、「施設とは」である。
副題もついているが、あくまでも、「施設とは」が、本書の表題である。

なぜ施設から出て、自立生活を行うことが、大切なのかをより鮮明に浮き彫りにするためにも、「理想的な施設とはあるのか」や、著者にとっての「施設とは」の一つの結論があってもよかったかもしれない。

本書は、学術書として、「施設」「障害、障害者」「障害児者の家族」「支援者とその関係性」「関係者を支える制度論」「医学的な課題」すべてについて、著者独特の体系性を持って、論じきっている良書であり、社会福祉・障害福祉、障害児者に関わる方は、必読すべき書物であると、強くおすすめするものであります。

【 書籍のご案内 】
https://seikatsushoin.com/books/%e6%96%bd%e8%a8%ad%e3%81%a8%e3%81%af%e4%bd%95%e3%81%8b/

◼︎ 評者プロフィール

齋藤直希(さいとう なおき)

行政書士有資格者、社会福祉主事任用資格者

1973年7月上山市生まれ。県立上山養護学校、県立ゆきわり養護学校を経て、肢体不自由者でありながら、県立山形中央高校に入学。

同校卒業後、山形大学人文学部に進学し、法学を専攻し、在学中に行政書士の資格を取得。

現在は、「一般社団法人 障害者・難病者自律支援研究会」代表。

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