旧・厚生省や外務省、宮城県知事、大学の客員教授など多彩な経歴を持ち、2018年には旭日重光章を受賞している浅野 史郎。2021年からは、株式会社土屋にて重度訪問介護事業に心血を注いでいます。長く障害福祉に携わってきた浅野が抱く日本の障害支援に対する想い、危機感、そして今後の課題までを熱く語ります。
浅野は講話でいきなり「おめでとうございます!」と言う。その真意とは
2021年10月現在73歳、これが最後の仕事だと語る浅野が取り組んでいることのひとつが、土屋が行っている「重度訪問介護従業者養成研修 総合過程」受講者への研修内での講座です。この研修は、自治体から障害支援区分4~6の認定を受けている「重度障害者」が自宅で生活するためのサポートを行う「重度訪問介護」を仕事にするために必要で、最短3日間で資格が取得できるというもの。
浅野 「障害福祉の歴史や基礎知識、コミュニケーション技術のノウハウ、実習などさまざまな講座があります。その中で私は、これから障害福祉に携わっていこうという受講者の方に対して、『心構え』や『自分たちがこれからやろうとしていることの意義』をお伝えしています。講座といっても、私が一方的に喋る内容ではありませんよ。参加者全員に意見を求め、双方向で進めています」
一般的な講座と違って、少しユニークな浅野の講座。たとえば、「私、浅野史郎から、明日のアテンダント(重度障害者の介助をする役割の意)の皆様へ、おめでとうございます」と伝え、なぜ「おめでとうございます」なのかを受講者に考えさせます。
浅野 「大体の人はわかりませんと答えます。中には、『研修を受けることができておめでとうございます、でしょうか』という人もいましたが……これは『あなた方はなんとすばらしい職業、仕事に就くことになるのでしょうか。おめでとうございます』という意味なんですね。世の中にはたくさんの仕事があるけれど、こんなに良い仕事はない。そのことを、私は最初にお話します」
そしてもうひとつ、これから向き合っていく障害者の方=クライアントに対する接し方、「尊厳」という大切な点に関しても、最初の段階からしっかりと伝えています。
浅野 「たとえ動けない、歩けない、喋れない、命と向き合っている方にも、一人の人間としての尊厳があります。当たり前のことだと思いますよね。でも、2006年に国連総会で採択された障害者権利条約第17条で『全ての障害者は、他の者との平等を基礎として、その心身がそのままの状態で尊重される権利を有する』と定められています。ということは、当たり前のことが当たり前ではない世の中だったということ。
そのうえで、アテンダントはクライアントの日常生活をサポートするだけでなく、クライアントが社会参加し、夢を追いかけていくための支援者であること、クライアントの人生を一緒にデザインしていく、同じ目標を持った同志であることをお話します。これから福祉の仕事に就こうという人にいきなり話しても、正直ピンとこないかもしれません。けれど、働いて数年後に『あのとき浅野がいっていたのは、こういうことなのか』と思い出してもらえたら嬉しいです」
障害者施設で横たわる彼らの姿が、浅野を揺さぶり突き動かした
振り返れば、浅野が福祉に携わってきた年月はじつに50年以上。一番の出発点は、22歳のときに訪問した重症心身障害児施設での出来事です。当時の厚生省に入省したばかりの浅野は、研修で訪れた施設で重症心身障害児の方々と初めて対面しました。
浅野 「まずは、何より施設の数が足りない。とくに、知的障害を持った方は、養護学校を卒業した後、家にいるか施設にいるかのどちらかです。家庭の事情で家にいられない人も多いので、施設に入るということになるのですが、多くの施設の場合、一度施設に入ると卒業というものがないのです。親たちが求めますが、行き場所がない。それは、行先は有った方がいいなと思うのは一つ。
もう一つは一度施設に入ったら、生涯を施設で終える。ドローンとした生気のない様子で、食事の時以外は、ただいるような様子。そんな一日の繰り返しを死ぬまで続けるんだという、この現実に身も心も揺さぶられました。すぐに、『これでいいはずがない』と動き始めました。研修で『あなた施設に入りたいですか?』と尋ねます。そうすると『はい』と答える人は誰もいません。では彼ら障害者は、施設にいるほかないのだろうか。自らの欲せざるところ、他人に施すことなかれというでしょ。この状況から脱却しなければならない。その思いがずっと私を突き動かしてきた。これはまだ終わらない旅です。
もちろん、当時もそういった施設ばかりではありませんでした。今でいうグループホームのような、生活寮のような場所を提供しているところもありました。食事作りや金銭管理を手伝ってあげれば、十分生活していける方もたくさんいるわけですから。だからこそ、単に障害者施設を増やすのではなく、障害者が自分で生活できる場所とシステムを作らなくては、そう思いました。私自身の使命を見つけたという感じです」
かすかな縁が引き寄せた、男浅野の福祉人生最後の仕事
北海道庁時代に感じた使命を、着実に実行に移していった浅野。中でも、知的障害者のグループホームを制度化したことは、現在の障害福祉の大きな礎となりました。制度化した当時は全国100ヶ所からスタートした事業が、現在では8000以上に。いまや施設で暮らしている知的障害者の数よりも、グループホームで生活している方の数が上回っています。
浅野 「このグループホームの制度化ができたことで、ノーマライゼーション、つまり、知的障害を持った人でも、普通の場所で普通の生活をすべきだという考えに近づけたことは、本当に行政官をやっていて良かったなと思っています。障害福祉は私のアイデンティティであり、ライフワークです」
その後、宮城県知事やさまざまな大学の客員教授を務め、2021年3月末で神奈川大学を退官。さらにもう少し働きたいと職を探していたところ、かねてからの知人であり土屋の職員であった原 香織に、土屋の代表取締役である高浜 敏之を紹介されたことから、新たな障害福祉人生が動き出しました。
浅野 「高浜さんと知り合い、彼が介護難民問題の解決のため、重度訪問介護事業に取り組んでいることを知って、コレだと思いました。正直この時点では、重度訪問介護事業についてほとんど何も知らなかったのですが、これはすばらしい、世界に冠たる制度だと直感したのです。そうしたら、時を同じくして高浜さんから土屋に来てくれないかという話をいただき、飛び上がるほど嬉しかったですね。まさに奇跡の出会いだと思っています。私は、重度訪問介護事業に『惚れて』いますから」
障害福祉は、人の心に多様性の火を灯す温かく力強い「社会改革」です
これまで、多方面から障害福祉に携わってきた浅野ですが、障害福祉の仕事を一言でいうと「社会改革」だと語ります。
浅野 「障害福祉は社会を変えます。まずは、重度障害を持っている方が在宅で生活をしている、さらには社会活動までしている様子を、より多くの人に知ってもらいたいです。そうすると、自分たちが持っていた障害者に対するイメージが大きく変わると思います。障害があるからできない、かわいそう、ではないんですよね。
多様性を尊重する社会を、などとよく謳われますが、具体的にどうしていいかわからない人も多いと思います。土屋が行っている重度訪問介護という事業は、私たち一人ひとりの意識を変え、実行に移していくカギになるのではないでしょうか。
障害のある人たちの暮らしを支えたり、そばで見つめてたりしていると、“生きるとはどういうことか”“人間とはどういう存在なのか”そんな命題に遅かれ早かれ考えが及びます。そんな大きな問題を考えていたか、考えないようにしてきたか、それは人間としての深み、他者を思いやる器、そういうものに大きくかかわってきます」
ここで、はじめに語っていた重度訪問介護従業者養成研修の話に戻ります。浅野が伝えたい、これから障害福祉に携わる人たちへのメッセージは、「あなたたちは、すばらしい職業に就くことになります」であり、「あなたたちは社会改革をしているのですよ」ということ。
浅野 「働き始める前の方たちに話しているのですから、実感はわかないでしょう。でも、それくらい土屋が行っていることは大切なミッションなのです。まだまだやるべきことや課題は山積みですが、私が旧・厚生省の障害福祉課課長をしていた1987年当時と今では、随分と障害福祉を取り巻く環境は良くなったと思います。土屋はその一端を担う存在です。繰り返しになりますが、障害福祉は、社会を変えていけるのです。その一具体策として、重度訪問を使うのが当たり前の社会にするというのが、私の仕事ですね」
すべての人がお互いを尊重しあい、誰もが地域で生きられるように。まだまだ土屋の、そして浅野の挑戦は続いていきます。