生きづらさを抱えた方や介護が必要な人たちが地域で生き生きと暮らせるように──。羽田 冨美江はそんな思いを胸に、広島県鞆の浦で生活密着型多機能ホーム「鞆の浦さくらホーム」を運営しています。現在羽田は、株式会社土屋の顧問としても活動中。誰もが自分らしく生きられる「共生社会」を目指し続ける彼女の、ひたむきな思いに迫ります。
鞆の浦は、小さな町。「この町で暮らせてよかった」と思ってもらいたい
鞆の浦を、安心して暮らせる町にしたい──。そんな思いを胸に羽田 冨美江は、2004年より生活密着型多機能ホーム『鞆の浦さくらホーム』の運営を始めました。
『さくらホーム』は、高齢者のためのグループホーム・デイサービスとしての機能のほか、自宅から施設への「通い」を中心にした小規模多機能サービスなどを行っています。
羽田 「鞆の浦で暮らす人に限定してご利用いただいている地域密着型のサービスで、デイサービスには18名、小規模多機能サービスには本体と2件のサテライト事業所を含め約50名が登録してくださっています。
利用者を限定している理由は、利用者の皆さんを地域全体で見守っていくような社会を作りたいという信念があるから。鞆の浦の人たちの生活区域の中に拠点を作って、町のみんなで支える形の施設にしたいと考えたのです」
まさに鞆の浦で生活する人のための施設。しかしスタッフに関していえば、鞆の浦以外の地区で暮らす人たちが全体の半数を占めているといいます。
羽田 「鞆の浦以外で暮らす人たちを積極的に採用しているのには、理由があるんです。利用者さんたちは、鞆の浦の住民じゃない人がスタッフをした方が気分が楽なんですよ。内部の人だと、誰々の奥さんだとかお嫁さんだとかがありますからね。つながりがあるのはいいけれど、逆に気をつかう部分もある。だから外の人も採用しているんです」
羽田は『さくらホーム』のほか、2019年11月には『鞆の浦・お宿&集いの場 燧冶』をオープンしました。車椅子の人や小さなお子様でも安心して泊まれるように、さまざまな工夫が凝らされた古民家の宿です。
その他にも駄菓子屋や、特別支援学級に通う小中学生のための養育施設を開設。さらに現在は、株式会社土屋の顧問として、ジェンダーに関わる仕事を始めたところです。
また、「どんな立場の人でも地域で心地よく暮らせるように」という思いで精力的に活動を続けてきた羽田。書籍も2冊刊行しています。『介護が育てる地域の力』と『超高齢社会の介護はおもしろい』(ブリコラージュ)。超高齢の鞆の浦で、地域共生を目指す彼女の思いが詰まった本です。
羽田 「鞆の浦って、本当にちっちゃな町です。でもここで暮らす人たちには、この町でよかったなって思ってもらいたいんですよ。
今、町の人口はどんどん減っています。鞆の浦を持続可能な町にするために、自分に何ができるかなと考えて活動しているんです。介護をやりたいという気持ち以上に、地域を良くしたいという気持ちの方が強いですね。そのための手段として、理学療法士の経験を活かして介護をしている形です」
「町から居場所が消えた」舅の介護で気付いた、生き辛さを生む「認識」とは
羽田 「最初は鞆の浦のことが大嫌いだったんですよ。だから朝早くに町を出て、夜だけ帰ってくるみたいな生活をしていましたね」
そんな羽田の生活を変えることになる、ある出来事がありました。今から30年ほど前のこと。羽田の舅が脳卒中になり、介護が必要な状態になったのです。
羽田 「介護が必要になった舅は最初、病院で訓練を受けていました。でも舅は病院をすごく嫌がって、家にいたいって主張したんです。私自身理学療法士だったこともあり、『じゃあ私が見ればいいか』と思って了承しました。
ところが、全く上手くいかなかったんです。今まで家の長として何年も生きてきた舅からすれば、急に私に管理されるようになってストレスだったんでしょうね。リハビリも嫌がるし、減塩食を投げつけてきたりもしましたよ」
思うようにいかない介護生活。頭を悩ませながらも必死で取り組んでいたある日、父を車椅子に乗せて散歩に出てみると、地域の人から声をかけられました。
羽田 「みんながね、『かわいそうに』って声をかけてくるんですよ。『お酒をたくさん飲んでたから病気になったんだね、家で静かにしておきなさいね』とかね。もちろん地域の人たちに悪気はなくて、優しさで言っていることはわかっているんですよ。でも私は当時、ものすごく違和感を抱いて……」
ずっと鞆の浦で生きてきたのに、介護が必要な状態になった途端、町から居場所がなくなる──そんな現実を、羽田は目の当たりにしたといいます。
羽田 「それからしばらくしてお祭りの準備があって。地域のみんなでお神輿の修理している場所に、舅を連れて行ったんです。そのとき、舅の友達の息子さんが、普通に話しかけてくれたんですよ。ビールを出しながら、修理のやり方を聞いてくれて。周囲の人も、舅にタバコを渡して火をつけてくれたりして。昔の関係性のまま、接してくれたんですよね。すると舅は、これまでと全然違って、生き生きとしゃべるんです。
そして、次の日の朝。あんなにリハビリを嫌がっていた舅が自分から『リハビリをする』って言い出したんです。こんなに変わるんだって、びっくりして」
羽田はハッとしました。これまで理学療法士として多くの人にリハビリを施し、無事に地域に返してきたと自負してきましたが、どれだけいいリハビリをしても、地域が、周りの人たちの価値観が変わらなければ、障害を持った人、認知症の人たちはこれまでの「今までの暮らし」から排除されてしまうのだと知ったのです。
この経験が原体験となり、羽田は鞆の浦の街自体を変えていきたいと思うようになりました。
羽田 「舅の介護をすることになって、やっと鞆の地に足が着いたというか。町の意識環境を変えていかなきゃいけないと思ったんですよ。障害のある人も、認知症の人も、町で普通に暮らせて、みんなに声をかけてもらえる。そんな、安心して生きていける町にしたいって思ったんです」
要介護者が、「素のまま」で暮らせる町に。「地域」の力があれば叶えられる
羽田 「たとえ障害や認知症などになったとしても、安心して地域で暮らせればいいなと思って。できないことではないと思うんですよ。だって地域の人は、元々この人は走るのが好きだったとか、甘いものが好きだったとかを知っている。
だからこそ、その人を認めてあげることができると思うんです。よく知っている今までのその人を認めて、ありのままで暮らしてもらう。地域には、それができると信じているんです」
実際に鞆の浦には、介護を最も必要とする『要介護5』の認定を受けている人が、施設に入らずに暮らしているケースがあります。在宅介護のみで暮らしていけるのは、地域の人の力を借りることができているからです。
羽田 「漁師町の習慣で『海に立小便する』ってのがあって、認知症になった元漁師さんが立小便するの、『まあ、ええか』と見守ることにしたんです。その人の暮らし方や個人史をそのまま受け入れるってことです。その人の生きてきた時間は、地域と切り離すのはやっぱり違和感がありますよね」
認知症を含めた障害を持った人を地域で受け入れることは、地域に暮らすほかの人の負担を増やすということとは違う、もっと穏やかさのある風景だと羽田は言います。
羽田 「それで、本人だけが気楽で周りがただただ大変なのかというと、こんな話があって、認知症のさくらホームの利用者さんが、毎日コンビニで決まった品物をさっと持ってきてしまうんだけど、後でその分さくらホームに請求を回してくれる。なんて連携を取れるようにしてくれました。
これは金銭的な話だけじゃなくて、お店の人も、『あのお婆さん許してあげたいんだけどどうしようかと思ってたから、さくらホームさんに入ることになってよかった』ってホッとしてたんです」
鞆の浦の意識環境を変え続けてきた羽田は、2021年7月から、株式会社土屋で顧問を務めることになりました。株式会社土屋は、重度訪問介護サービスなどを提供している会社で、全国に多数の事務所を持っています。
羽田 「土屋との縁のきっかけは、数年前でした。代表の高浜さんが、鞆の浦で行われた勉強会のついでという形で『さくらホーム』に見学に来てくれたんです。そこでつながり、私がイベントに参加するようになって。
顧問の話をもらったときは恐縮でしたが、ちょうど『さくらホーム』を息子や娘に引き継ぐために少し手を引こうと思っていたときで。タイミングがよかったですし、何より私は、重度心身障害の方に対する在宅ケアというのをあんまりよくわかっていなくて、知りたかったんです。土屋と関わることで、自分が成長できるだろうと思って引き受けました」
重度心身障害の方に対するケアとして、土屋に出会う前から年に1度、難病の子どもたちの旅行受け入れを行ってきた羽田。3日ほど、彼らを連れて鞆の浦を旅行し、子どもたちの夢を叶えながら町の魅力を伝えていました。
羽田 「土屋の目指しているものと、私の目指しているものには共通する部分があります。重度心身障害の方へのケアを勉強できたら、私ももっといろんなことに手を広げていけると思うので、土屋との関わりが楽しみです」
生き辛さを抱える人をそのまま受け容れる社会を。やりたいことは山ほどある
地域共生社会のために長らく活動を続けてきた羽田は今、伝えたいことがあります。
羽田 「介護に関わる人たちって、どうしても施設の中で物事を見てしまう傾向があります。でも障害のある方って、もっといろんなところに行きたいし、挑戦したいと思っていらっしゃるんですよ。
施設の中や自宅の中だけで生活するなんてつまらないよ、人は社会の一員として生まれ社会人として活動するものだと私は伝えていきたい。そのためにも、私たちの取り組みを実例として見せられたらいいなって思うんです」
地域を大きく変えていくためには、行政の協力も不可欠です。羽田は近い将来の目標として、鞆の浦にある仙酔島を拠点とした新たな取り組みも思案しています。
羽田 「仙酔島の観光とコラボレーションした取り組みができたらいいなと思っています。まだ行政に文書を出したところで、これから実現に向けて調整を始めるという段階なんですが。
今考えているのは、発達障害や精神障害の人が暮らせるグループホームを作ること。そしてその周辺に、障害のある人たちが地域住民として働けるような喫茶店や食堂、お土産屋など置いて。
その一角には、対象者を限定しないで地域の人が気軽にいろんなことを相談しに来れるような場所『暮らしの保健室』を作るんです。こういう場所があることで、生きづらさを抱えた人たちが、その人のペースで楽しく仕事ができたらいいなあと思っているんですよね」
人々の“生きやすさに”寄りそって、理想の実現のために着実に歩みを進めてきた羽田。これからも、幅広い取り組みを自らで手がけていきます。
羽田 「私、したいことが山ほどあるんです。山ほどある中で、確実に1個1個階段を上がれている実感があります。これからもいろいろなことに取り組んで、どんな人でも普通に旅行ができたり、普通に歩いてスッとお店にも入れたり、そんな社会を作っていけたらいいなあと思っています」
鞆の浦を暮らしやすい町に変えてきたそのエネルギーを、土屋のネットワークを触媒に、日本中の多くの地域へ──。「生きていてよかった」と一人一人が思える社会を目指し、希望をひたむきに追い続ける羽田の笑顔は、輝いています。